中華猫発注
ART GROUND エウロス
2001/10/27-28当パンごあいさつ
今回は4部作である。 ここのところ、コント集ばかりをやってきたので 単品開発にしてはひさしぶりに少し演劇っぽい感じの仕上がりになっていると思う。 単品開発は20世紀には結構こういう芸風のものもやっていた。 「20世紀」こう書くだけで、なんか偉大な感じがする。 「20世紀」には発明王エジソンとか石油王ロックフェラーとかくらい 偉大な感じを加えるスパイスがある。 だからきっと、「20世紀FOX」なんだ。「20世紀カップヌードル」なんだ。 そこで、20世紀単品開発と一人つぶやいてみよう。勇気が沸くかもしれないから。 で、脚本も演出も違う4部作なのである。 とまどうかもしれないが、ついてきていただきたい。 いわゆるオムニバスってやつである。 今回、稽古していると思い出すことがたくさんあった。 そうだ、演劇ってこうだった。 「こういうことやってたやってた」みたいな甘酸っぱい感じがした。 この演劇っぽさというものは、忘れていたけれど非常に気恥ずかしい。 そのひとつが、不自然に相手の目を見なくてはならないことだ。 コントの時の目線っていうのは、 「よし、ぼけるぞ」「よっしゃ、つっこむぞ」 みたいな、なんか間をはかるアイコンタクトみたいなもんだ。 それは、なんかまだ自分自身が失われていない感じがする。 ところが、これが演劇となるとそうもいかない。 なんだか自分を失ったフワフワした状態で、自分以外の誰かの気持ちで 相手の目を見なくてはいけなかったりする。 役者の素養のある人間なら、そういう自分を失っていく感覚が気持ちよいのかもしれない。 でも、残念ながら僕はそうではなかった。 いつも、変な気持ちをかかえたまま、相手の目を見なくていけなかった。 そんな他人に自分の身体がのっとられるような、 ものすごい感覚を得ることができるほど僕は天才ではなかったし 自分のセリフに酔うことができるほど、 僕はおめでたいオバカさんでもなかったわけだ。 そもそも、演劇において人間の身体というのはどんな存在なのか? 人間の自我は脚本を前にして、どのように扱われるべきものなのか? 語らない演劇は演劇ではないのである。 おお。 気がつくと語っていた。 泳ぎ続けなければ死んでしまう魚のように 語り続けなければ生きていけないのが演劇人なのだ。 いつになく演劇論を語り始めてしまうほどに 昔のことを思い出す稽古場だった。 コント集じゃないですけど、笑っていってください。 では。 単品開発 小江翼